Foresight
Jul. 10, 2017
SNS全盛の時代こそ、信念を貫き自分に正直であれ
学びにおいて師を持つことの効用とは
[國分功一郎]高崎経済大学 経済学部 准教授
前編で、暇な時間にこそ自分が磨かれると話しましたが、日本人は自由な時間の使い方が上手ではないという印象を受けます。
朝の通勤電車でサラリーマンがつまらなそうにケータイでゲームをしているのを見ると、もったいないなあと思うんですよ。ゲームがダメなんじゃない。僕自身ゲームは好きで、すごく熱中していた時期もあります。残念なのはゲームとの向き合い方ですね。どうせやるなら遊びでも何でも真剣にやるべきだと思うんです。
余暇の使い方が消極的なんです。積極的に時間を使うには、単なる気晴らしではなくて、主体的に取り組めるものがいいでしょうね。語学でもスポーツでもいいけれども、ある程度の強制力があったり、お金を払ったり、上達が分かるもの。
例えば僕は仕事上の必要があって、忙しい中時間を捻出してギリシャ語を習っていたんですけど、これがとてもよかった。通ううちに先生に顔を覚えられるから休みにくいし(笑)、語学は努力すれば必ず上達しますしね。空手も、前に少しやっていたのをまた始めたんですが、帯の色が変わると練習意欲を掻き立てられると先生に言われて、なるほどなあと。はまっていくためには上達が必要ということです。
先生から思想を受け取ることが学びにおいて大切
何を勉強するにせよ、先生につくといいかもしれません。先生がいるということは、教わる内容以上のことを教えられるということ。でなければ先生はいらないでしょう。テキストを読めば勉強できるはずですから。
ギリシャ語だって活用は教科書に書いてあります。でも先生に習えば、例えば単語同士の関連に注目すると理解が深まりますよ、といったことまで教えてくれる。力点の置き方は先生によって違うでしょう。それは僕が哲学を教えるのと一緒だと思います。
スポーツでも同じことが言えるでしょう。ジムだと多くは決まった先生はいないけれども、違うんですね。先生の思想を学ぶんですから。いろんな人がいろんな思想を持っている。だから教えている内容以上の思想を先生から受け取るということが学びにおいては大切なんです。
そういう意味で、かつての師匠と弟子の関係は見直したいですね。必要以上の拘束力があったから都合が悪いということで学校形式がスタートしたわけですが、学校という近代的な教育制度においてもある種の徒弟制は残っているわけで、それはやはりその関係性でしか得られないものがあるということ。何かを始めたいときに先生を求めることは理に適っていると思います。
簡単に箇条書きにできる内容しか考慮に入れないのが現代の特徴だけれども、人間は箇条書きできること以上のものを人から受け取っているんですね。これはいろんな分野の方にいえることだと思います。
自分なりの考えを深めていく。それが自信につながる。
最近の傾向では、SNSに時間を割く人も増えています。無理して見栄えのいい写真をアップして、「いいね!」を増やす。強い承認欲求の根底には自信のなさがあるんでしょう。
でも、そういう人が自信が持てないのは当たり前なんです。だって自分のことを考える時間を持ててないんだから。自分のことを考えていないから自信が持てない、信念がない。信念が持てないから勇気がない。だから周りに合わせることしかできない。
みんなが違うと言っていても、自分がおかしいと思ったらおかしいというのが勇気でしょう? 勇気って最近聞かないけど、あえて僕は古臭い言葉で「勇気が必要だ」と言いたい。それにはやっぱり信念がないと。そして信念を持つには、まず自分自身と対話をすること。
考えを突き詰めていれば、理不尽なことや不当だと思うことに対して「これはおかしい、なぜならば――」と、言葉が出てくるはずなんです。でも、その言葉が出てこないし、ともすると理不尽さへの疑義すら持ち合わせない人もいる。それは自分自身と対話をしていないからなんですよね。
若い世代から「どうすれば自信が持てますか」と聞かれることがあるけれど、やはりそれに対する答えは自分ときちんと話をすることしかない。「いいね!」をたくさんもらっても得られるものではないんです。自信というものはあくまで行動の副産物であって、他の人には与えられないものだから。
自分とゆっくり話をする時間、ボーッとする時間、つまりは暇な時間を持って、自分なりの考えを深めていく。それが自分の主張の背景を説明する力になり、結果として自信につながっていくのだと思います。さらにいえば、そういう思考の強さは勇気を生んでイノベーションの創出にもつながるはずなんです。
自分に嘘をつき続けると感覚が鈍麻していく
思索を深めることに加えてもう1つ、何か不快に感じることがあれば、それをごまかさないことも大事じゃないかと思います。
人間は生物として危険を察知する能力を持っているはずだけれども、幸か不幸か意識がそれを抑えつけ、ごまかしてしまうことができる。体は嫌だと言っているのに、やらなきゃいけないことはやることができるんです。だからこそ人間は文明を築けたわけですが、でも「嫌だ」「不愉快だ」と感じたら、その感覚を信じて忘れずにいることが大切です。
別の言い方をすると、自分に嘘をつかない。自己欺瞞しない。それが必要な場面もあるでしょうけれども、嫌でもやらなきゃいけないのだったら、その事実を忘れずにおく。特に仕事だとそういうことが多いですよね。やりたくないのにやらされることなんて珍しくないでしょう。それを絶対に忘れないでいてほしい。
なぜかというと、自分に嘘をつくと感覚がどんどん鈍麻していくからです。自分が傷ついていることを自分でごまかせるようになると、他人が傷ついていることに気が付かなくなってしまう。みんなが不幸になります。
いま日本社会はそのドツボにはまっていると思います。ずっと自己欺瞞してきているから傷ついているのに気づかないし、あるいは気づいている場合でも、俺が嫌だったんだからお前も同じ思いをしろと負の連鎖が続いていく。
電車にベビーカーを持ち込むことが解禁されたとき、高齢女性からの反発が多かったそうです。自分たちも苦労したんだから今の若いママたちを甘やかせるなという理屈ですね。彼女たちの心は社会によってそこまでねじられてしまったという気がします。被害者が加害するような負の連鎖を止めるには嫌だったことを忘れない、むしろきちんと表明して改善していくような世の中にならないといけません。
『暇と退屈の倫理学 増補新版』(2015年、太田出版、写真)は、紀伊國屋じんぶん大賞2011大賞を受賞した旧版『暇と退屈の倫理学』(2011年、朝日出版社)を大幅改稿したもの。退屈の発生根拠や存在理由、暇の効用について追究している。
価値あるものは必ず副産物として現れる。
思想の体験が発想力を鍛えていく
いま僕は自己欺瞞しないことや信念を貫くことが大事だと述べましたが、それには思考の強さが必要です。疑問に思うことを掘り下げていく、分からないことを粘り強く探求していく、そういう厚みのある思考力を育てる手っ取り早い方法は本を読むことでしょう。
お勧めは特定の著者を多く読むことですね。先ほどの先生につく話と一緒で、ある人物の本を何冊も読んで思想をつかむと、1冊読むよりも多くのことが得られます。その著者が先生になる。私淑するわけですね。一人ができたら他の人にも広げてみるといいでしょう。
ジャンルは小説でもノンフィクションでも、それこそ哲学書でもいいですけど、一部のビジネス書や自己啓発本のように、すぐ役立ちそうなものはこの目的にはそぐわないかもしれません。価値あるものは必ず副産物として現れます。やっぱりある程度自分で努力して読みこなしていかないと、思想を体験することにならない。書いてある以上のこと、書かれてあるものが出てきた原点を探ることで、思考力や発想力が鍛えられていくと思います。
アリストテレスの幸福の定義は「完了形で現在進行形」
考える力が身につくと、自分がしている仕事の改善の方法も見えてくるでしょう。どうしたら仕事がもっとうまくできるかを考えることは、仕事を楽しく続けるうえでも大切だし、仕事自体を面白くすることにもなります。
例えば、アリストテレスの幸福の定義は、完了形であると同時に現在進行形であるということなんですね。つまり何か達成感があると同時に、またしかし活動自体に面白さが続いているということ。その両側面があるものの1つが、幸福な状態だということです。
単にいま取り組んでいることが楽しいだけでなく、達成もなければいけない。でも達成があればいいかというとそうでもなくて、取り組んでいること自体も現在進行形で楽しくなければならない。これはすごく含蓄のある教えだと思います。
古い価値観だと、来るべき達成のためにいま楽しんではいけないというストイックさが求められますが、それだけだとつらいですよね。日々の仕事を楽しみながら、ささやかでもいいので何か達成できれば素直に喜ぶ。2000年以上も前から指摘されていることなんですから、それを仕事でも実践すればいいと思います。僕自身も仕事で両局面を常に意識するようにしています。
行為と想像力の守備範囲が逆転した現代を哲学的に考えたい
いま考えているテーマの1つは「想像力」です。ここまで話してきたようなSNSや情報ネットワークが生活を覆いつくしている時代に想像力がどう変化するのか、そこに関心があるんです。
例えばシリアで大勢の一般市民が無残に殺される事態が起きていて、それを伝える情報がメディアやインターネットにあふれています。しかし僕らはシリアの真実をどれだけ分かっているのか。分かった気になっているだけかもしれません。ネットの情報を通じて関心を持っているけれども、果たして本当にうまくシリアを想像できているのかなと心許ない面もあります。
他方で、いまはグローバリゼーションの時代だから、想像も及ばない遠い地点と容易につながってしまうこともある。渋谷駅で買ったチョコレートは、もしかしたらアフリカのどこかの国の児童労働で採られたカカオで作られたチョコレートかもしれません。渋谷でチョコを買っただけなのに、児童労働という悪に加担してしまうかもしれないのです。
昔は行為の届く範囲が狭かったから想像力が向こうを行ったけど、今は逆で、行為の及ぶ範囲がものすごく広くなって想像力が追い付かないんですね。行為と想像力の守備範囲が逆転してしまったのが、今のある種の不幸ではないか。そんなふうに現代の条件の元で想像力を哲学的に考えてみたい。それもまた、生き方、働き方、社会とのつながり方を問うことになると思います。
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(2017.4.21 渋谷区のクリエイティブラウンジMOVにて取材)
text: Yoshie Kaneko
photo: Tomoyo Yamazaki
國分氏の最新作『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院)。能動と受動の二項対立を超えて新たな視野を開く「中動態」。その歴史と意味を発掘していく過程はミステリ小説のようにスリリングだ。
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)
1974年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学 経済学部 准教授。専攻は哲学。主な著書に、『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学 増補版』(太田出版)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)、『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)、『近代政治哲学』(ちくま新書)、『民主主義を直感するために』(晶文社)など。訳書にドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)、ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(共訳、みすず書房)などがある。