Management
Nov. 27, 2017
客を否定する「闘争的サービス」が支持されるのはなぜか
サービス提供者と客が価値を共創する
[山内裕]京都大学経営管理大学院 准教授
サービスは、それを提供する側とされる側の「闘争(struggle)」によって成り立つものだ――こういうと、みなさんは驚かれるでしょうか。もちろん、店員と客がけんかをするわけではないですよ。勝負のつく戦い(fight、combat、battle)ではありません。
一般的にサービスは顧客を満足させることが最も重要な変数であり、そのために笑顔、迅速さ、分かりやすさ、情報の充実などが求められます。しかし、高級なサービスであればあるほど、これらはサービスの価値を低下させることになるのです。意外なことかもしれませんが、サービスの根源は客を否定することにある。それがすなわち「闘い」ということです。
敷居の低いサービスは、客にとってそれほど価値がない
例えば、東京で高級な鮨屋に入ったときのことを考えてみてください。愛想のない親方がいて、品書きもなく、値段も分からない。この時点ですでに、親しみやすさや分かりやすさを重視する通常のサービスの規範を外れています。
おそるおそる鮨を頼むと、カウンター越しにポンと握りが出てきます。レストランだったら、これは何々ですといった一言があってしかるべきなのに、何も言われない。緊張しながらそれを口に入れて、何か言わないといけないかなと思って「おいしいですね」というと、親方ににらまれたりする(笑)。お金を払っている人が緊張して、動揺し不安になる。
もちろんこれは鮨屋という世界の作法です。通の客はそういう無駄のないもてなしを当然のものと受け止め、自分もまた黙って鮨を食べて満足できます。けれども慣れていない人は「自分は何か間違ったことをしただろうか」といたたまれない気分になってしまう。つまり自分が否定されているわけです。
店側は「うちのサービスは客の知っている世界とは異なる、もっと格が上なのだ」ということを示すため、あえて素人の客に理解できないようにサービスを構築しているのです。敷居の低いサービスは、客にとってそれほど価値のあるものに映らないからです。
鮨屋では客と店員が力を見せ合っている
緊張を強いるサービスに人はなぜありがたみを感じるのかといえば、否定されることで客は自己を確かなものとして感じることができるからです。
例えばファストフードのような画一化されたサービスでは客も店員も匿名性が高く、その人がどういう人間であるかがそれほど問題にされません。気楽ではありますが、高品質のもてなしを受けたという実感は湧きませんよね。これと正反対の位置にあるのが鮨屋のサービスということです。
鮨屋では、客と店員がそれぞれに自己を呈示しているのです。そのせめぎ合いの中で、店側は客に対して、うちのサービスは高度だが、あなたはどういう人なのかと問うている。それにそつのない素振りで応じることで、客は自分を卓越化しようとするわけです。緊張感のあるやりとりの中で両者が互いに力を見せ合い、そして相手の力を認めていく。それを「闘争」と形容しているのです。
客はサービスに巻き込まれる存在である
本来であればフレンドリーさが求められるはずのサービスに、なぜ闘争状態が持ち込まれるのか。その理由をもう少し詳しく考えてみます。そこには2つの側面があります。
1つは、客は闘争に巻き込まれざるを得ないという消極的な面です。
例えばカフェでコーヒーをおいしいと思うとか、レストランでステーキの味に満足するという場合、自分が主体となって客体として提供されるサービスを評価しているという前提に立っています。つまり主体と客体が分離されているわけです。
しかし、この主客分離は本当に可能なのかどうか。サービスは客も一緒に参加して「共創」するものなので、主体は客体に絡み取られています。サービスの価値が問題になるとき、そこに絡み取られた客自身の価値も問題となります。先ほどの鮨屋の話でいえば、そこで提供されるサービスは慣れていない人には難解で、ともすると居心地の悪いものです。高度なサービスに追いつけていない客としての自分が問題となっています。他方、通は自分がそのサービスにふさわしい知識と経験を持った客としての自分を意識します。
となると、客はサービスを受けるにあたって、自分がどういう人間かを問題にせざるを得なくなります。値段の張るワインを飲んで「おいしい」というだけでは、月並みな言葉でしか表現できない人だと思われてしまう。書店で本を買うときも、誰かに頼まれた不本意なものだったら、自分の買い物ではないというアピールをさりげなくしてみる。それはサービスの提供者に対する自己表明であり、誰もが思い当たることだと思います。
つまり、客はサービスに巻き込まれる存在なんですね。サービスから距離を取って、ワインがおいしければ素直にそう言えばいいのに言えない。サービスはそういう世界であり、主体が巻き込まれるのは避けがたいことなのです。従って自分がどういう人間かを常に示さないといけない。それが闘争を生み出す消極的な側面ということです。
自分を認めてもらいたい欲求が闘争状態を求める
もう1つ、サービスにおける闘争には積極的な側面もあります。
ちょっと考えてみてほしいのですが、一方的に何かを与えられて人は本当に満足できるものでしょうか。たやすく攻略できるゲームや、何の苦もなく成就する恋愛に、人はどれだけ熱中するでしょうか。多少の難しさがないと、ということは最初に自分を否定されるような機会がないと、それに魅力を感じにくいのではないでしょうか。
これを説明するために、ヘーゲルという哲学者が議論した、主人と奴隷の弁証法的関係を見てみましょう。奴隷は無条件に主人を肯定するので、主人は承認欲求を満たすことができます。しかし、その承認は自分に従属している人からの承認なので、すでに意味がない。承認を得られているけれども、それは承認でないという矛盾が起きているわけです。
これをサービスに適用してみます。客はお金を払うことで店員から承認されます。しかし、それは形式的なものであって、客の人間性に対する心からの承認ではありません。客が本当に自分を認めてもらうためには、否定的な関係からスタートして、自分の人となりを証明して最終的に承認を受けるという、ある程度の緊張感が必要です。
ここに闘争という概念の積極的な意味を見出すことができます。自分を認めてもらいたい。他の客とは違うという目で見てもらいたい。その欲望が闘争としてのサービスを求めるともいえるのです。鮨屋の親方があのようにふるまうのは、合理的なことなのです。
京都大学経営管理大学院は2006年4月に開設。先端的なマネジメント研究と高度に専門的な実務をつなぐ教育を実践している。
https://www.gsm.kyoto-u.ac.jp/ja/
山内氏のウェブサイト。
http://yamauchi.net/
山内氏の著書『「闘争」としてのサービス――顧客インタラクションの研究』(中央経済社)では、サービス提供者と客のやりとりの詳細な観察とその結果を示し、サービスの本質をあぶり出している。
イノベーションで望まれるのは
人間中心設計ならぬ「人間脱中心設計」
価値共創である限りすべてのサービスは闘争になります。自動販売機や、あるいは人が対応するものであってもコンビニエンスストアのように店員と客が互いを値踏みするような緊張が伴わない場合は、それほど価値を共創するわけではないので闘争にはなりません。
つまり価値共創のないサービスは、主客が分離されている状態においてのみ実現可能なのです。そして、こうした自販機的なサービスは利便性やコストの面で優れてはいるものの、革新的な価値をもたらすことができるかといえば難しいのが実情です。
しかしながら、企業では主客が分離されているという前提に立って、ユーザーの潜在ニーズを探り、それを満たすべきだという言説が声高に言われています。価値を提供する側=企業と、享受する側=消費者が、明確に主客分離しているものと思い込んでいる。自販機的なサービスを生み出したいならそれでも問題ありませんが、革新的な価値を生み出すには矛盾があるわけです。
例えば人間中心設計という考え方があります。人々の潜在ニーズを理解して、それを実現するデザインをしようとするもので、主客を切り離した考え方です。しかし、これを1980年代に提唱した認知科学者のドナルド・ノーマンは、2000年代に入って人間中心設計から若干距離を置くようになります*。人間中心設計でユーザーを混乱させるような悪いデザインは回避できるかもしれないが、革新的なデザインは実現できないだろうと彼は考えを改めるのです。
ユーザーとデザインされたものの主客分離ができないのであれば、ユーザーの潜在ニーズを満たすかのようにデザインしようという発想自体が成立しません。人間中心設計や、これと発想を同じくする参加型デザインのような取り組みが悪いと言っているわけではないのですが、サービスを提供する側が一方的に客のニーズを満たそうとするだけでは、共創という意識を欠いた閉じたデザインになりかねないということは指摘しておきたいと思います。イノベーションにあたっては、人間中心設計ならぬ「人間脱中心設計」が望まれているのではないでしょうか。
文化的洗練を疑似体験する装置としてヒットしたスターバックス
価値共創の闘争的サービスの実践例について、先ほどは鮨屋の例を挙げましたが、大衆向けのサービスにも事例はあります。
代表的なものはスターバックスですね。創業(1966年)当初は南米やアフリカなど世界中から豆を仕入れ、焙煎に工夫を凝らした愛好家向けのスペシャルティコーヒーの店でしたが、後にハワード・シュルツが事業を引き継いで大衆向けのコーヒーショップへと変貌し、現在の世界的繁栄を築きました。
シュルツは、客が求めているのはコーヒーの微妙な味わいの違いでなく、スペシャルティコーヒーの「雰囲気」だと察知したのです。それを具現化したものがメニューのイタリア語です。「ラテ」「グランデ」「フラペチーノ」といったイタリア語はアメリカ人の客には理解できません。つまり客を否定しているわけです。あなたには分からないものだと。
スターバックスの爆発的な人気に火が付いたのは1980年代です。物質的な豊かさに恵まれる一方、横並びの生活水準の中で、戦後生まれの世代は自分を表現する手立てを文化的な洗練さに求めました。その人々にスターバックスは好まれたのです。イタリア語が飛び交う店内は文化的洗練を疑似体験する装置であり、そういう場所に身を置くことで自らを証明しようとする。そんな消費者の動きにうまく乗り合わせ、一気に大衆化したわけです**。
サブカルチャーをうまく読み替えることが大ヒットに結びつくかもしれない
本来、スペシャルティコーヒーを本当に楽しめるのはごく一部の愛好家、つまり洗練された文化を体現したエリートです。多くの大衆はそれに憧れるけれども、自身を同一化することはできません。
そんな状況でシュルツはスペシャルティコーヒーのレベルを少し下げて、闘争的な枠組みを残したまま、大衆がその価値を享受できるようにした。多少の緊張感を残しつつ、気軽に体験できるようにしたのです。これは天才的な才覚だと思いますね。最近のサードウェーブコーヒーの人気も、さらに背伸びした体験を求める消費者の欲望の表れでしょう。
そう考えると、愛好家やオタクによるサブカルチャーが根付いている分野は注目に値するといえます。そのサブカルチャーの価値をうまく大衆化することで大ヒットに結び付けられるかもしれません。
例えば、いま鮨屋に一番詳しいのは「鮨ヲタ」を自称する鮨の愛好家たちですが、彼らは伝統的な美食家ではないんです。鮨屋通いを「修行」と呼んだり、家を出る前にシャワーを浴びて身を清めるとか、鮨に向き合う態度がちょっとおかしい(笑)。おかしいけれども、そういうところから新しい価値が生まれることを見抜かないといけないのでしょう。
自分を証明する手段がない、その不安に対する答え
マクドナルドも、実は闘争的な枠組みがあるからこそ、世界的に成功を収められたのだと思います。マクドナルドは文化の対極にあるように思われていますが、実際には文化そのものなのです。
伝統的な社会にうんざりしつつ、かといってそこから抜け出すこともできない戦後アメリカの消費者に解放感を与え、新しい近代社会の象徴となったのがマクドナルドです。人々はそれに憧れを抱くと同時に、社会の外部性としてのマクドナルドに恐怖心も持ったはずです。このような体験には自己の否定を伴うため、マクドナルドへのイメージが愛憎入り混じることになる。それがマクドナルドが愛されると同時に嫌われる風潮につながったと考えられます。もちろん今では大人がマクドナルドにときめくことはありません。だからこそ子どもをターゲットにしているのです。
スターバックスもマクドナルドも、潜在ニーズを満たすとか、顧客の問題を解決するとか、満足度を高めるといった、従来のサービスが掲げた目標とは全く別のところで人々を魅了しています。これらは個人が資本主義社会において漠然と抱いている不安を埋め合わせるサービスなんです。自分を証明する手段がなくなったときの不安に対する答えとして大きな意味があるわけです。
闘争としてのサービスを生み出すための具体的な手法をまだ明確な形で提示することができません。しかし、こうした事例が大きな成功を収めていることは、新しいサービスを生み出すための1つの手掛かりになるかもしれません。
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(2017.6.30 コクヨ エコライブオフィス品川にて取材)
text: Yoshie Kaneko
photo: Tomoyo Yamazaki
* 『誰のためのデザイン?――認知科学者のデザイン原論』(新曜社)で人間(ユーザー)中心設計を説いたドナルド・ノーマンは、その後刊行した『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』(同)や『未来のモノのデザイン――ロボット時代のデザイン原論』(同)などで、感情に訴えるデザインや、ユーザーと機械とのインタラクションの重要性など、人間中心設計を超えたデザインアプローチについて思索を深めている。
** ダグラス・ホルトとダグラス・キャメロンの共著『Cultural Strategy: Using Innovative Ideologies to Build Breakthrough Brands』(Oxford University Press)に、他の事例も含めて詳しく書かれている。
山内裕(やまうち・ゆたか)
京都大学経営管理大学院准教授。1998年京都大学工学部情報工学卒業、2000年京都大学情報学修士、2006年UCLA Anderson Schoolにて経営学博士(Ph.D. in Management)。Xerox Palo Alto Research Center(PARC)研究員、京都大学経営管理大学院講師を経て、2015年4月より現職。組織論を専門とし、主にサービスを対象に研究している。