Innovator
Mar. 18, 2019
高等教育を受け、経済的に自立できた運を恵まれない人たちに返したい
所得レベルという「事実」に基づいて世界を理解する
[関美和]翻訳家、杏林大学外国語学部准教授
例えば『SHARE』や『MAKERS』* など、日本にそれまでなかった概念を提唱する本の翻訳にも携わってきました。これまでにない概念やサービスの翻訳では特に、専門家でない一般の読者がさくさく読めるように、同時にその道に詳しい人たちに違和感のない言葉遣いになるように心掛けています。日本の読者にはわかりにくい部分があれば、なるべくイメージが沸くように多少翻訳で補うことはあります。
思い込みを排除して事実を直視することの重要性
とはいえ、「日本人だからこう」とか「日本独特の~」といった表現を聞くと、違和感を覚えます。私自身の限られた経験からは、国や文化が違ったとしても、そこで暮らす人間は似ているところの方が多いと思っています。
これも私が翻訳に携わったものですが、ハンス・ロスリングの書いた『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』** には、人間がいかに異なる国・文化に対して誤ったイメージや固定観念に縛られているか、思い込みを排除して事実を直視することの重要性が説かれています。まさに我が意を得たりという趣の本でした。
例えば、「先進国」「途上国」という表現をよく見聞きしますけど、そうやって世界を「わたしたち」と「あの人たち」の2つに分断するのはおかしいとロスリングは言っています。なぜなら、世界はグラデーションになっていて、中間にいる人の方が多いからです。そして、所得レベルによって分類する方が、世界をよりありのままに見られると説いています。
生活習慣や価値観の相違をもたらすのは、所得レベルの差
人々の生活スタイルや習慣の違いは、文化や宗教の違いでなく、所得の違いによるものが大きいというのがロスリングの主張です。特定の所得層に属する人は国や地域や文化や宗教が違っても、生活習慣はほぼ同じだと言うのです。そして、宗教や文化が違うから、「あの人たちは自分たちと違う」という考えはおそらく間違っているし、危険だとも言っています。
こうした主張を裏付ける事例が『FACTFULNESS』には豊富に挙げられています。例えば、公衆衛生の専門家であるロスリングがスウェーデンの医学生を連れてインド・ケーララ州の病院で研修を行ったときのこと。エレベーターに乗り遅れた仲間のため、先に乗り込んでいた学生が足を挟んでドアを開けておこうとしました。日本でもよくある光景ですよね。エレベーターにはセンサーがついていて、異物があればドアは閉まらず、もちろん上昇も下降もしないはずというのが、所得レベルの高い国の〝常識〟だからです。
ところがインドのエレベーターは違いました。学生の足を挟んだまま、ドアが閉まり続けたんです。インド人の先生が緊急ボタンを押して止めたけれども、学生は足をケガしてしまいました。「あんな間抜けな学生がよく医学部に入れたものだ」とインド人の先生はあきれたものの、もちろんその学生は間抜けではなく、ただエレベーターを使うときの習慣が世界中どこでも通用すると思い込んでしまっただけなのです。
生活習慣や行動様式、ものの考え方などの相違をもたらすものは、国や文化の違いだと多くの人は考えがちですけど、そうではなくて所得の違い、あるいは社会の発展段階の違いによるものだというロスリングの主張にはとても説得力があります。そして、文化は変わるし、社会も変わるという彼の話は前向きで、癒しにもなります。
杏林大学は1966年創立、1970年に大学設置の私立大学。キャンパスは三鷹、井の頭、八王子の3か所。外国語学部は英語学科、中国語学科、観光交流文化学科で構成されている。
http://www.kyorin-u.ac.jp/
* 『SHARE――〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略』(レイチェル・ボッツマン、ルー・ロジャース著、小林弘人監修、NHK出版)
『MAKERS――21世紀の産業革命が始まる』(クリス・アンダーソン著、NHK出版)
** 『FACTFULNESS――10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド著、上杉周作、関美和訳、日経BP社)
アジア女子大学支援財団の理事として、
ファンドレイジングに取り組む
『FACTFULNESS』には、ロスリングがバングラデシュのアジア女子大学で講義を行ったときのエピソードも書かれています。400人の女子学生に向けて、女性が教育を受けることで夫婦関係は対等になり、出産する子どもの数も適切に制限され、きちんとした養育も可能になる。貧困から抜け出すことは可能だし、文化は必ず変わるのだと、女性たちを力づけたのです。
これは偶然ですが、実は私はアジア女子大学支援財団の理事をしています。バングラデシュは今でこそ生活レベルが上がってきましたけど、かつてはアジアの最貧国でした。そこで高等教育の機会のない女性たちに、英語で欧米並みのリベラルアーツの教育を施す機関を作りたいという想いに共感して、大学設立時から今までずっとファンドレイズのお手伝いをしてきたんです。
アジア女子大学の学生はみんな、家族の中やその地域で初めて大学教育を受ける女性で、ほぼ全員が全額給付型の奨学金で学んでいます。私の主な仕事はその奨学金を集めることで、賛同いただける日本企業や個人に協力をお願いしています。
アジア女子大学は2018年に創立10周年を迎え、今はバングラデシュだけでなく、ミャンマー、カンボジア、ネパール、スリランカ、アフガニスタンなどから集まった、500人を超える学生が学んでいます。最近ではロヒンギャの難民キャンプやシリアから来る学生もいます。
私がアメリカで高等教育を受け、経済的に自立できたのは、私が頑張ったからでも優秀だったからでもありません。たまたま運に恵まれたからです。たまたま受けた運なので、たまたま運に恵まれない人たちに少しでもお返しできたらいいなと思っています。
何が自分を幸せにするか、じっくりと考えてみる
勤めていた投資顧問会社を辞めたことで、好きな翻訳の道に進むことができたし、アジア女子大学の支援のような社会性の高い活動、自分の関心のある活動により多くの時間を割けるようにもなりました。
会社を辞めて好きなことや興味のあることを仕事にしたいけれども、組織を飛び出すことに不安や恐れを感じて、なかなか一歩を踏み出せない人もいるかもしれません。
『イノベーションのジレンマ』などの著作を通して破壊的イノベーションを世に知らしめた、ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセンという経営学者はこう言っています。
1つ、あなたの幸せの源泉が何かをよく考えなさい。2つ、今見返りのあることではなく、30年先、50年先に見返りを得られることに投資しなさい。3つ、牢屋に入るな(笑)。
みなさんそれぞれに何が自分を幸せにするかを、時間をとって考えてみるといいと思います。私も未だに考えています。
牢屋に入らないこと、という教えは極端なようで、それほど極端ではないかもしれません。人はいきなり悪人になるわけではなく、ほんの少しずつ境界線がわからなくなっていくものです。不幸になろうと思って人生を送る人はいないし、犯罪者になろうと思って生きる人もいないと思います。でも、少しづつ、少しづつ、方向がずれていって、気づいたら後戻りできなくなってしまう可能性は、どんな人にもあると思います。
今目の前にある果実でなく、自分が30年先、50年先にどんな果実を収穫したいかを考えながら、今の時間を過ごしてみることで、牢屋に入らずにすむかもしれませんね。 私はさすがに50年先は死んでいると思うので、20年くらい先を見て頑張っていきたいです(笑)。
目先の課題としてあるのは、どこまで翻訳のスピードを上げられるかということ。今はフルタイムで大学の教員をしながら、年間5冊から6冊ほど翻訳しています。ペースが速いと驚かれる方もいるんですけど、日本語の本なら2~3時間あれば一冊読めますからね。読む速度で翻訳できれば1年に300冊くらい翻訳できてもおかしくない(笑)。だから、もっとできるんじゃないかと思って挑戦しています。
WEB限定コンテンツ
(2018.12.20 三鷹市の杏林大学 井の頭キャンパスにて取材)
text: Yoshie Kaneko
photo: Kazuhiro Shiraishi
関氏が翻訳した本が次々と刊行されている。
『EQ 2.0――「心の知能指数」を高める66のテクニック』(トラヴィス・ブラッドベリー、ジーン・グリーブス著、サンガ)は、エモーショナル・インテリジェンスを高めるための実践本。
『GREAT BOSS――シリコンバレー式ずけずけ言う力』(キム・スコット著、東洋経済新報社)は、徹底的に本音で語ることで部下の能力を最大限に引き出す方法を指南する。
関美和(せき・みわ)
1965年、福岡県生まれ。翻訳家。杏林大学外国語学部准教授。慶応義塾大学文学部・法学部卒業。電通、スミス・バーニー勤務の後、ハーバード・ビジネス・スクールでMBA取得。モルガン・スタンレー投資銀行を経てクレイ・フィンレイ投資顧問東京支店長を務める。また、アジア女子大学(バングラデシュ)支援財団の理事も務めている。