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日本の経営のDNAに見る「経済と倫理」の一致

「自然」を拠り所とした死生観の再構築も重要

[広井良典]京都大学 こころの未来研究センター 教授

これからの人口減少社会においては、人口増加の時代にあった「拡大・成長」の価値観から脱却しなければならない、それが社会の持続可能性につながるという話を前編中編で話しました。

これは企業のあり方や経営姿勢とも無縁の話ではありません。例えば、近年続く企業の不祥事ですね。個別の事情もあるでしょうが、おおむねどのようなケースでも、ひたすら拡大・成長を目指す昭和的な発想が根底にあるのではないでしょうか。

例えば、ノルマ絶対主義においては、組織が一丸となって単純な数値目標を目指すことを強いられます。当然ながら、個人レベルではかなり無理しなければ達成できない場合もあるでしょう。拡大成長型の成功体験から脱皮できずにいる状態が不正の温床となり、不祥事へと発展するケースもあるのではないかと思います。


京都大学 こころの未来研究センターは、心理学、認知科学、認知神経科学、公共政策、美学・芸術学、仏教学など多彩な専門分野の研究者が集い、こころに関する学際的研究を進め、その成果を社会に発信する研究組織。2007年4月創立。
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/

成長よりも持続可能性に軸足を置いた経営のあり方が重要

そう考えると、これからの人口減少時代を生き抜くためには、根本から発想を転換していく必要があります。

幸いなことに、日本には持続可能性に非常に馴染みやすい経営の伝統があります。例えば、売り手・買い手・世間の満足を追求する近江商人の「三方よし」の家訓がそうですし、二宮尊徳は「経済と道徳の一致」を強調していました。

渋沢栄一の『論語と算盤』も同様でしょう。論語は倫理、算盤は経済を示しています。企業経営においては持続可能性が重要であり、そこにおいて経済と倫理は一致するのだ――渋沢はそう指摘しているのだと私は理解しています。

経営者の方に「会社の規模を大きくすることと、会社を長く続けることのどちらが大事か」と聞けば、後者を選ぶ人は多いはずです。事業を永続するということは、まさに持続可能性を追求すること。ですから拡大成長よりも持続可能性に軸足を置いた経営のあり方が重要になりますし、それはもともと日本の経営のDNAに間違いなくあったものでもある。従って、それを再発見していくことが求められていると思います。

企業活動はコミュニティや自然・環境とつながる姿勢が求められる

数年前から注目を集めている組織モデルが「ティール組織」です。これを説明した『ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(フレデリック・ラルー著、英治出版)という本では、上下関係も売上目標もない組織で大きな成果をあげる事例が紹介されています。個人の自由な創発を促す環境を作ることが、結果的にパフォーマンスを高めるという主張ですね。

従業員を厳しく管理して拡大・成長を追い求める組織運営に対して、まさに異を唱える本なんですけれども、このベースになっているのがトランスパーソナル心理学です。

この場合、私の理解では個人をただ超えるだけでなく、コミュニティ、自然や環境とつながるといった発想が底流にあると感じます。つまり、これからの企業活動はコミュニティや自然・環境とつながる姿勢が求められるのではないかと思うのです。

自由な発想でソーシャルビジネスを立ち上げる動きも

大学で私が接した学生の中から、卒業後にソーシャルビジネスを立ち上げる人が増えているのですが、彼らの声を聞くと、渋沢栄一など古い時代の経営者の理念とシンクロナイズするところがありますね。

その一人、馬上丈司さんが立ち上げた千葉エコ・エネルギーという会社では、ソーラーシェアリングを推進しています。田んぼや畑に特殊な形の太陽光パネルを設置して、農業と同時に太陽光パネルで再生可能エネルギーの発電もできるという一石二鳥の仕組みです。馬上さんの話を聞いていても、持続可能性と同時に個人の自由な創造性が結び付いた結果が、この事業になっているという印象を強く受けます。

ドットファイブトーキョーというNPOを立ち上げた原口悠さんもそうですね。市民活動を気軽に楽しむというアプローチで、オフィスワーカーと地域をつなぐ取り組みを進めています。

既存の組織に頼らずに自分たちの力でこうした動きを作っていく事例が各地で出ているのは頼もしいですし、希望が持てることでもあります。これは世代的な価値観の変化とも関係していると思われ、また大きくいえば資本主義のあり方の変化ともいえますが、集団で1本の道を登るという時代とは違う、個人や仲間同士の自由な発想が大事かなと思います。

馬上さんや原口さんに限らず、ソーシャルビジネスに乗り出す若者たちは、肩肘張って特別な何かをしているというよりは、幸せややりがい、手応えを感じられることを追求した結果、自然な流れでそこに行き着いているように見えるんです。あるいは、いまの昭和的な組織中心の働き方がそれほど幸せには思えないといったことも影響しているのかもしれませんね。

千葉エコ・エネルギー株式会社のウェブサイト。
https://www.chiba-eco.co.jp/

特定非営利活動法人ドットファイブトーキョーのウェブサイト。
http://dot5tokyo.org/

原口氏は、一般社団法人大牟田未来共創センター(福岡県大牟田市)や一般社団法人TOMOSU(奈良市)も立ち上げ、セクターや業界を超えて社会課題を解決する活動を広く展開している。

超高齢化社会とはすなわち多死社会。
日本人にとって死生観の再構築は大きな課題

持続可能性の追求ということの他に、人口減少時代の課題としては、死生観の再構築ということも挙げられるでしょう。

人口が減っていくということは、同時に超高齢化社会がさらに進行していくということでもあります。それはおのずと多死社会であるということも意味します。

1950年代から70年代ごろまでは死亡者数は70万人程度でしたが、80年代ごろから増え始め、2003年に100万人を突破。2017年には134万人を超えるなど、さらに急増中です。高齢化がピークを迎える2040年ごろには170万人弱まで増加すると見込まれています。

こうした状況では否応なく、「看取り」や「死」を身近に感じる機会が増えてきます。週刊誌でも毎号のように「死に方」や「終活」をテーマにした記事が掲載されていますしね。日本人にとって死生観の再構築は大きな課題であるということはいえると思います。

人口減少社会では死生観や精神性にも関心が向かう

興味深いことに、大学で授業をやっている中で、「死」「生命」といったテーマが意外と若い世代に注目されているように感じるんですね。あるいは、死や生と親和性のあるところで、「宗教性」「スピリチュアリティ」などに関心を寄せる傾向もうかがえます。

私が進める「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ・プロジェクト」の活動で各地の神社に行く機会があるんですけど、参拝者は高齢者よりも若い人が多いんです。いわゆるパワースポット巡りというものでしょう。

先ほど若年層の間でローカル志向やコミュニティづくりの動きがあると話しましたが、目に見えないつながりに価値を見出すという意味で、何か関連があるのかなとも考えてしまいます。

人口増加期というのは、とにかく経済を大きくするということで、あまり死や老いについて考えることはありません。物質的な豊かさが追求され、モノもどんどん消費していく。地球環境にも注意が払われない。そういう路線で昭和、平成と続いてきたわけです。翻って、人口減少社会では死生観や精神性、どう生きてどう死んでいくのかというようなテーマにも関心が向かっていくということが、1つの側面として指摘できると思います。

人生のイメージは「直線」と「円環」の2タイプがある

看取りをめぐる認識も変化しています。ある方に聞いた話ですけど、家族が難病で命の瀬戸際に立たされた際、過剰な延命治療はしないという苦渋の決断を下したそうですが、それは「有を無にしてはならない」という拡大・成長の強迫観念にとらわれていたからこそ生まれた葛藤だったかもしれないと振り返っておられました。

その後、ご家族は持ち直して元気になったけれども、難病ゆえいずれは看取りのタイミングが来るかもしれない。だけど一度、死に直面したことで、回復不能な場合は命を手放すことが最良の判断であると思い切りがついた、さらに自分が臨終を迎えることになった場合に無駄な延命は拒否する覚悟ができたとおっしゃっていました。ご家族の延命をめぐる決断を契機に、自らの死生観を問い直すことにもなったわけです。

人生やライフサイクルのイメージには大きく2つのタイプがあると思います。1つは上昇・進歩する「直線としての人生イメージ」で、このタイプにおいては老いや死は上昇を断つネガティブな性格のものと位置づけられがちです。

もう1つは生まれた場所から大きく円を描いて元の場所に戻ることが死であるような「円環としての人生イメージ」で、死はたましいの帰還とも見ることができます。

どちらがいいというものではありませんし、瀬戸際に立たされないと、どう死ぬか、どう生きるかといった深刻なテーマを問い直すことは難しいかもしれません。それでも人生に対する構えがあると、どう働くか、どこでどう生きるかについて考えをより深めることができるでしょうし、いざというときには自分なりの価値観で決めきることができるようになるのではないかと思います。

日本における死生観は三層構造

死生観というものは、結局は人生観の裏返しでもあるので、どう考えるかは人それぞれです。とはいえ、大づかみにいえば、日本における死生観は三層構造になっているのではないかと私は考えています。

最も基底にあると思われるのは、「“原・神道的”な層」です。身近なところでは「八百万(やおよろず)の神様」やジブリ映画などに見て取れますが、自然の中にスピリチュアリティがあるとする世界観です。風の神様、山の神様、火の神様、木の神様といった具合に、自然の中にある種のパワーや生命力を見出すわけですね。

二番目にあるのが「仏教(キリスト教)的な層」で、死を抽象的、理念的にとらえます。いわば生と死が二極化されているわけです。

一番上の表層にあるのが「“唯物論的”な層」で、科学的もしくは近代的な枠組みで、死は「無」であるととらえるものです。

「自然に還る」ことが生きることにも死ぬことにもつながる

3つの層のうち、最も重要な位置を占めるのが「“原・神道的”な層」だと思います。

10年ぐらい前に亡くなった私の父親は、退職後に郊外の小さな農園で野菜を作ることに精を出していました。その農園を「還自園」と名付けていたんです。それは野菜を育てること、自然に触れることが自然に還るという意味だけではなく、死んだら最後は自然に還るという意味合いも明らかにあったと思います。

「自然に還る」「自然と一体になる」ということが生きることにも死ぬことにもつながっていて、生と死に連続性がある。そういう観点が日本人の奥底にあるのではないでしょうか。その価値観はまた神社や鎮守の森を尊ぶ考え方にも通じます。

成長・拡大の時代は表層の唯物論的な層が強くなりましたが、これからの時代は違います。先ほど日本の経営のDNAを見つめ直すことの意義について話しましたが、死生観においても同じことがいえるのかもしれません。さまざまな局面で伝統的な価値を再評価する、それが人口減少時代に問われる視点ではないかと考えています。

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(2020.3.9 港区のANAインターコンチネンタルホテル東京にて取材)

text: Yoshie Kaneko
photo: Rikiya Nakamura

(広井氏の著書『人口減少時代のデザイン』p.266の図版を元に作成)

広井良典(ひろい・よしのり)

京都大学こころの未来研究センター教授。1961年岡山市生まれ。東京大学・同大学院修士課程修了後、厚生省勤務を経て96年より千葉大学法経学部助教授、2003年より同教授。この間マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。16年4月より現職。専攻は公共政策及び科学哲学。社会保障や環境、医療、都市・地域に関する政策研究から、時間、ケア、死生観等をめぐる哲学的考察まで、幅広い活動を行っている。『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)で第9回大佛次郎論壇賞を受賞。その他の著書に『ケアを問いなおす』『死生観を問いなおす』『持続可能な福祉社会』(以上、ちくま新書)、『日本の社会保障』(第40回エコノミスト賞受賞)『定常型社会』『ポスト資本主義』(以上、岩波新書)、『生命の政治学』(岩波書店)、『ケア学』(医学書院)、『人口減少社会という希望』(朝日選書)、『人口減少社会のデザイン』(東洋経済新報社)など多数。

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